しをんの最新作:文楽のなかで芸を極めんとする青年『仏果を得ず』


仏果を得ず

仏果を得ず

とてもおもしろく、楽しく、素晴らしかった〜!
文楽の世界で、芸を極めんとする青年の成長と恋と日常。なじみのない世界でありながら、私たちの普段の仕事にも恋にも共通する志や向上心がすばらしくて、のめりこむようにして読んでしまった。思わず文楽も見に行きたくなりました! 主人公の青年が等身大で、その日常があたたかくて、厳しくて。失敗もするし迷いもするし、悲しいこともある。当たり前のことなんだけれど、そのなかに得るものがあり、成長がある。そういうことをほかほかとあたたかい気分で感じながら読みました。
とてもおすすめです。


以下ステキなお言葉を抜粋。

「なあ、健」
 と誠二がつぶやいた。「恋愛で駄目にならん秘訣を知っとるか」
「知っとったら苦労せえへん」
「相手になにかしたろと思わんことや」
 誠二の声は静かだった。健は誠二の横顔を見た。誠二は墓地の柵越しに、並ぶ卒塔婆を眺めているようだった。
「幸せにしたろとか、助けてあげんなんととか、そんなんは傲慢や。結局、お互いもたれかかってぐずぐずになるで。地球上に存在してくれとったら御の字、ぐらいに思うておくことや」
 そうかもしれないが、それも少しさびしいな、と健は感じた。

三浦しをん『仏果を得ず』双葉社 2007 pp191


 健は床の裏で、出番に備えて口をすすいだ。兎一郎も三味線を手にやってきた。一瞬、目が合う。銀太夫の次に語るのは、いつだって健には荷が重い。だが健は兎一郎の目に、自分と同じ意気込みを見た。今日こそは、ひとつ高い次元に自身の芸を押しあげてやる、という意気込みを。「天満紙屋内の段」の口は健が、切は砂太夫が語る。稽古をつけてもらうためにも、砂太夫をうならせるような語りをしなければならない。
 床に出て、客席からの拍手を浴びる。紙屋の炬燵にもぐりこみ、鬱々としている治兵衛が見える。そんな治兵衛に愛想をつかすでもなく、店を切り盛りしているおさんが見える。うまくいかない夫婦を心配して、あれこれ口出しをする地兵衛の兄と叔母がが見える。
 そうだ、このひとたちは生きている。するさと、それでもとどめようのない情愛を胸に、俺と同じく生きている。文字で書かれ音で表し人形が演じる芸能のなかに、まちがいなく人間の真実が光っている。この不思議。この深み。


三浦しをん『仏果を得ず』双葉社 2007 pp214