不倫と「妻というもの」のあいだにひそむ妖怪性を描く井上荒野『切羽へ』


(内容について詳しく書いていますので、これから読むという方はご注意を)


切羽へ

切羽へ


 画家の妻として小さな島に暮らす主人公。ある日島にやってきた男、石和。主人公の友人、月江は東京に住む「本土さん」と不倫している。主人公は石和を“ある瞬間には飛び込んでいってしまいそうな別の世界”として「妻」のままで眺め続ける。そのことにうっすら気づく島の人々。「妻」として存在しない月江は、奔放に本土さんといちゃつき、その妻とけんかし、石和と関係を持つ。石和と結婚しようかと主人公に告げる。
 石和が島を去る直前、主人公は夫の見ている前で、石和とともに廃墟へ向かい、戻ってくる。 

「あなたって、妖怪みたいね」
 月江は言った。
「あの人の奥さんのことを、化け物みたいって思っていたけれど。あなたも妖怪ね。妻って人種はきっとみんな妖怪なのね。やっぱり遠慮してよかったわ」
「妻だからじゃないわ」
 私は言い返した。
「あらそう? じゃ、何?」
 廃墟から一人、しずかさんの家へ戻ったときのことを、私は思い出した。あのとき夫は、床にぺたりと座り込み、私たちが放り出していった作業を一人黙々と続けていたのだ。ひとつずつ新聞紙でくるまれた陶器が、夫の周囲に茸みたいに山になっていた。あまりにも几帳面に貼りつけられて装飾みたいにも見えるセロテープが、てらてらと光っていた。厚ぼったいセーターを着た夫のまるめた背中も、巨大な茸のようだった。
 足音がしても夫は振り向かなかったのに、陽介さん、と戸口から呼ぶとぱっと顔を上げた。ああ、戻ってきたね、と言って微笑した夫。

 井上荒野 『切羽へ』 新潮社 2008年 pp.198-199.


 “私が夫から離れるということは、夫もまた私から離れるということ”その安全性と恐ろしさをもてあそびながら石和を眺め続ける主人公のことを、月江はたぶん「妖怪」と評したのではないだろうか。


 1つの関係性が永続的に保たれているとき、さらにもう1つの新しい関係性に飛び込むことは、それまでの永続性を持つ自己完結的な関係を手放すということ。完全に安全な何かを自分で手放すという魅惑的な誘惑と恐ろしい強大な不安。


 この小説には、完全な幸せを手にしながらも、それを投げ放たんとする「妻というもの」の危うい心性があまりにもみごとに描かれている。読みきるまで怖くて、スリリングで、どきどきしてたまらなかった。


この作者の本。ついつい読んでいる。
 誰よりも美しい妻潤一 (新潮文庫)もう切るわ (光文社文庫)夜を着るヌルイコイ (光文社文庫)だりや荘 (文春文庫)しかたのない水 (新潮文庫)ベーコン