愛されることと愛すること―まったくの他人で異性のふたりが、恋を通して愛し合う関係になる難しさについての考察― 


外では雪が降っている。

雪が積もって真っ白になった。

全体的に白い窓が目のはしにあって、

暖かい部屋の中にいる。

新刊を手にする。

ああ、しあわせだなあ。


みずうみ

みずうみ


 小さいとき、夜中にうっすらと目を開けるといつでも、ママがむきだしになった私のおへそをぽんぽんと優しくたたきながら、パジャマを直して、ふとんをかけてくれる光景を見たものだった。

「愛されているってこういうことだな、『この人に触っていたい、優しくしたい』そう思ってもらうことなんだ」と私は体でおぼえている。だから偽ものの愛には体が反応しないように、きちんとできている。そういうのが「育てられた」っていうことなのだろう。

よしもとばなな 『みずうみ』 フォイル 2005 p15


ゆっくりと読みながら、ふと立ち止まって考える。(しかし、初めて聞いた出版社だな・・・。)


うーん、愛される、愛するってどういうことなのかなあ。


・・・愛とは?(その1) - Psychotherapist Tetoの日記あるいはふっくらネコてとの日記
愛は憎に変わるのか? - Psychotherapist Tetoの日記あるいはふっくらネコてとの日記
愛は憎に変わるのか?その2 - Psychotherapist Tetoの日記あるいはふっくらネコてとの日記


これまで自分が考えてことも使って、『みずうみ』も参考にしつつ書いてみると、


愛するっているのは、「相手の存在に感謝していて、幸せだなって思って、尊敬してて、優しくしてあげたいなって思って、話したいなって思って、触りたいなって思って、いっしょにご飯を食べて、いっしょに眠りたいって思えること」なんだろうか?


愛されるっていうのは、相手にとって自分の存在がそういう存在になっているってことなんだろうか?


でも、異性っていう、まったくわからないもの同士で、もともと他人だったふたりの関係が恋愛として進んでくると、甘えとか自己愛とかそういうものが混じりこんで来る。自分のストレスをぶつけてしまったり、「わかってくれない」って拗ねたり怒ったりする。他のことに気が取られて、大切にできなくなってしまう。


そんなふうなまま、「愛」のある関係になれないことだってある。ポケモンみたいに、次のかたちに進化できない。もしも、ひとりだけ先に進化してしまっても、うまくいかない。ちぐはぐしてしまう。ひとりは相手に早く進化してほしくて急かしてしまうし、もうひとりは進化できなくって、進化しないままでいたいのかもしれなくて、苦しくなってしまう。


・・・そういう関係は「恋」で終わってしまうのかなあ。


「自分を守りたい。傷つきたくない。自分が苦しい。痛い」そういう状態に捕われて、殻に引きこもってしまうと、相手が見えなくなるし、愛せなくなる。愛してほしいのに、愛を求められるのは煩わしい。返ってこなかった時のことを考えるから愛を示すのは怖い。いっしょに手を取り合って愛を育てようとしていたはずなのに、相手の自己愛を奪い合い、傷つけあうような戦いになってしまう。


「恋」っていうのは、自己中心的なわがままなものだからかなあ。そういう自分をぶつけあって、成長して、スキルアップして、「愛する能力」を身につけていくのかなあ。


きっと、「愛する能力」や進化の度合いが似ている相手となら、まったくの他人で異性でも、愛し合うことがじょうずにできるように、いっしょにがんばっていけるものなのかもしれない。


これはもう、ほんとうにむつかしいので、同じレベルで助け合って、努力しあっていけないと、どちらもねをあげてしまうものなんだね。



 あまりにも意見が似ていたので、話を聞きながら、私は何かの魔法を見ているように思えた。

 意見がほとんど違わないということで、私の「絵を中断してよけいなことをやらなくちゃならない」という、むしゃくしゃした気持ちも消えた。これもまた、まるで魔法のように消えたのだ。

 外でいやなことがあった日、昔だったら家に帰って猫を触ったら気が晴れた。それと似たような感じで、中島くんが私の心にうずまいていた毒を中和したように思えた。

 前の私だったら、とりあえず黙って家に帰って、恋人とセックスして、気をまぎらわして、今日あったことなどおくびにも出さずに、自分の中におさめただろう。恋人というものをその程度にとらえていた。

 でも中島くんは違う、真剣勝負の人なのだ、そう思えた。

 本当に人を好きになるということが、今、はじまろうとしていた。重く、面倒くさいことだったが、見返りも大きい。大きすぎて、空を見上げているような気持ちになる。飛行機の中で、光る雲の海を見ているような気持ちに。

 それは、きれいすぎて悲しい気持ちととてもよく似ている。

 自分がこの世界にいられるのが、大きな目で見たら実はそう長い時間ではないと気づいてしまうときの感じに、とてもよく似ていたのだ。


よしもとばなな 『みずうみ』 フォイル 2005 p141-142

ううん・・・。
また考えてみたいと思います。
よかったらコメントなどして、いっしょに考えてみてくださいね☆