カウンセリングの効果に関する抽象論

ごろーり



やっぱり風邪、うつりました。
下痢と嘔吐と高熱でました。
バカにしてはいけませんね。
家族の風邪がうつってしまうのは、やはり予防できませんねぇ・・・。


それにしても、
今日は看護学校でカウンセリングの仕事でしたが、やはり学生相手のカウンセリングだと、効果がでるのが早いなあ・・・と実感します。こんなに効くものだっけ!?とびっくりします。2,3回話すと、もう信頼関係も話の内容も深まり、「話すつもりのなかった」話がでてきて、「あっ」と何かに気づいて、「すっきり」として帰っていきます。こちらが驚くくらいです。でもそれは私のカウンセリング技術が上達したせいもあるのかなと、少し自画自賛したりしています。資格を取り立てのころは、相手が健常な学生であっても、5回10回と回を重ねてもお互いにスッキリしない表面的に受容的なだけのカウンセリングや、信頼関係の形成されないままのカウンセリングもあったように思います。短期間で効果的なカウンセリングができるようになったのかなと、今日、まさに初めてしみじみと感じたように思います。


現在、病院で私が関わっている方は、慢性の方や、わりと病理が深い方ばかりなので、やはりカウンセリングも時間のかかった長いお付き合いになります。精神症状がなくなることよりもむしろ、生き難いなかを生きるその過程におつきあいしていくということが、カウンセラーの役目のようにも思います。


中高生の女の子が、必死で、死に物狂いで症状を出している。その症状には、生き難いなかでの救命のための仮の浮き輪のような役割があるのです。浮き輪にしがみつきながら、手足を動かしているのだけれども、手足は冷えて力尽きそうになるのです。そのなかで、カウンセリングができることはなんなのかというと、その人とその海において効果的な泳ぎ方をともに見いだし、練習するということなのかもしれません。けれども、なんども嵐が来る。そのときどきに手を貸しながらも、「あっちに光が見えるよ。大丈夫だよ。あなたは行けるよ。ここまでがんばってこれたじゃないの」と励ましながら、いくのかもしれません。陸が見えるまで。あるいはときどきは立って歩ける浅瀬にたどりつくまで。あるいはひとりでどこまでも泳いでいく力をつけるまで。


高等教育機関での学生のカウンセリングのように、精神病理を呈するにいたっていないひとというのは、やはり浅瀬でちょっと足がつったような状態なのかもしれません。ちょっと足をもんで、なにかにつかまってひとやすみして、再び泳ぎだす方向を見定めて、そして足をつったフォームを点検する。そういうお手伝い役をカウンセラーが担うことで、彼らはまたすいすいと泳いでいくのです。もちろん嵐に合う人もいますが、やはり彼らは救命胴衣を着て、ボートに乗っているのです。迷うことはあっても、腕がしびれることはあっても、またすいすいと漕いでいくことのできる手段をもっているのです。


そういう人たちのカウンセリングをすると、ああなんて人間には力があるんだろうと改めて感動します。ちょっとした助けでするすると伸びていきます。すぐに再び自分の力でぐいぐいと前に進んでいきます。


ただ、このように援助できるカウンセリング力を身につけるのは、やはり精神症状を呈している方を援助していくからなのだなあと、何年も精神科を経験したあとで強く感じます。


精神症状というのは、すべての人間が持つ魂の傷です。人の持つ傷はすべて、質の差ではなく、程度の差なのです。精神病だからといって、まったく質の異なるものではないのです。ですから、そのような深い傷の手当てをすることで、浅い傷の手当が理解できるようになり、その技術が高まるのは当然のことです。深い傷の手当てをすればするほど、カウンセリングの技術と精度があがっていくのです。それはやはり、人間というものを深く理解することにつながるからなのだろうと、日々感じます。


もっともっとうまくなりたいなあ。
やはり、この仕事は人間のもつ大きな魅力にかかわることのできる素敵な仕事だなあと思います。