「好意」の反作用


今日は事例検討会だった。
私が提出者である。
その会は、かなりのベテラン先生1,2人、中堅どころの先生3,4人、初心者〜中堅未満4,5人という、かなり魅力的な構成である。そして、1つのケースを3時間近くかけて検討させてもらえる貴重な場である。そこでそれぞれの経験年数と熟練度をもつ心理臨床家に、ケースの理解度、見立て、方針、発表者自身のカウンセリングの傾向、よくない癖、盲点などなどについて、とてもしっかりとした意見をいただけるとともに、自分の盲点や「もやもや」の原因に気づけるように援助してもらえる。ここ1,2年は、集中して、「うまくいっているようだけど、何かがひかかってもやもやする」事例を提出していた。そこでやっと気づけたことがある。


自分が好意を持ってしまったクライエントには、きちんと専門的臨床心理学的援助のプロとして仕事ができていない」ということである。


・・・当たり前のようなことである。いまさら、という感じのことだ。だから、気づけなかった。その「好意」というのも、恋愛感情というものでは決してなく、苦しいながらもよくがんばっている中・高生の女子のケースなどに対して感じるものである。「あぁ、苦しいのによくがんばっているな」という思いが、じゃまをする。カウンセリングは、常に適度な距離感と冷静さと客観視する部分がThの中にあって初めて成り立つ。好意を持ってしまうと、「自己と向き合うというけっこう辛い心の作業を援助する」という仕事が、ふと「優しく癒し、包み込んで守る」という方へ、本来のカウンセリングとは違う方向へほんの少し流されてしまう。その人が前へ進むために、いま真に悩みたいことを悩ませてあげる援助が微妙にできない。そのほんの少しの誤差が、カウンセリングの精度を狂わせる。そして結局はそのクライエントを苦しさの中へ長くとどまらせてしまうのではないか・・・そう気づいた。


カウンセラーというのは死神(伊坂幸太郎死神の精度』参照)のようなものなのだな。近づきすぎてもいけない。好意を持ってもいけない。嫌悪を・・・いや、嫌悪はむしろコントロールしやすい。自覚もしやすく、認知的な修正も可能である。好意はコントロールが非常に難しい。そのコントロールの狂いにも気づきにくい。なぜなら人間のナチュラルな心理として、「好意はいいものだ」とどこかで考えているからだ。


(もうひとつ参考文献)
DEATH NOTE (7) (ジャンプ・コミックス)


だから死神はかかわり過ぎないんだな・・・。
「プロの仕事」ができなくなるものね。
あるいは外科医が身内を切らないように。医師が患者と一定の心理的距離を冷たいくらい保つように。あるいは寿司職人が握るとき想いをこめすぎないように。
その寿司を握る強さは、誰に対しても「プロ」として全く同じ、あるいは、本当に細かく言えば、その日の天気や気温や、目の前にいるお客様の体調によってほんの少し変わる、というものでなくてはならないだろう。


職人の道はまだまだ遠い。