愛は憎に変わるのか?



愛は憎に変わるのか?
このテーマについて、まずいくつかの仮説が考えられる。


1.愛はもともとなかった。妄想だった・・・。(身もフタもナイない仮説)

2.その愛は、対象愛ではなく自己愛だった。

3.その愛は、正しく相手を見ていたのではなく、自分の中の理想イメージの投影に対する愛だった。

4.その愛は、愛であったが、その関係には万能感があった。それが損なわれ、防衛として憎しみになった。

5.その愛は、愛であったが、お互いに取り返しのつかない言葉が使われてしまった。

6.その愛は、そのときには愛であったが、関係性の深まりにつれて、お互いの怒りなどを投影しあう関係となり、関係において息苦しさと甘えと恨みが強くなった。

7.その愛は、そのときには愛であったが、年月によってどちらかの内面が変化し、それに応じて関係性も変化してしまった。

8.その愛は、今もなお、憎しみとして表現されている愛である。


ああ、なんだか書いていて、悲しくなってきました。愛が憎に変わった全ての関係が、8番だといいですね。なんだか抽象論なので、言葉遊びみたいになりかねませんが、みなさんはどう思いますか?なにか悲しい思い出を思い出させてしまったら、ごめんなさい。


全ての関係に、尊敬と感謝があれば、いつでも「しあわせの種」はあるのだと思います。あとは、それを関係の中で大切にして、きちんと水をやって、ときどきは肥料もやる。忘れずに手間をかける。でもかけすぎない。そういうふうにすれば、しあわせの芽はきっと出るんだと思います。そして、そうやって大事にするスキルも、何回かしあわせの鉢を枯らして、失敗して、学んでいくのです。次の鉢はもっとうまく育てられます。
そうだいいなと、思っています。