愛は憎に変わるのか?その2




一般的に、愛が憎に変わるとき、つまり「すんごく好きだった人が、マジ憎らしくなって、思い出すだけでムカムカ怒りまでわいてしまう!!」というとき、その心の中で何が起こっているかについて、昨日考察してみました。


今日は平たく考えてみます。・・・つまり、1つの状況として


「いろんな自分を、ずっと知って、たくさん知って、受け入れてくれると思っていたし、ずーっと、そうやって受け入れ続けてくれる人だと思っていたのに、離れちゃうなんて!!何よっ、うそつきっ!キーッ!!ていうかなに?私がダメってことなの!?イラナイ子なの?」と傷ついている思いがずっと自分の心的作業によっても、外的環境によっても癒されずに、あるというとき、かもしれませんね。


いろいろ考えたけど、やっぱりおさまらない。すっきりするような、見方が変わるようなハッピーな出来事も起こってこない。その人を超えるような存在が、じゃじゃーんと現れたりしない。そんなとき、心の中で愛が憎に変わった状態で、その相手の姿が保たれてしまうかもしれません。


ということは・・・きっと、すごくすごく好きだったんだよね。その人に受け入れられなければ、世界が崩壊するくらいに、大きく大切な存在だったんだね。その人を超えるくらいに、自我成長促進的な、かつ心底受容される感じ・ぴったりした幸せな感じがあって、ロマンティックな感情も刺激される、そんな存在がなかなか出てこないということだよね。もちろん、そうです。そのくらいすごい人、一般的に3〜10年に1人くらいしか出会えないようです。ある計算式(MITかどこかの数学者がまじめに?考え出した計算式)によれば、50年に一度だったかな?−「医学都市伝説」参照


そんな相手に出会ってしまって(そんな相手だと思い込んでしまった場合を除く)、上手くいかなかった場合、確かに辛くて苦しくて、どす黒くてもやもやした醜い気持ちを引きずり続けるかもしれません。そしてそれは当然なのかも。幸運の尻尾をつかみ損ねてしまったわけだから。


そうですね。ここまでをふまえて、仮説をさらに付け加えてみます。


相手を憎んでいるのではなく、実は・・・


1.運命に怒る。運命を憎む。ふたりのライフサイクルの、ある未成熟な時点で、であって、愛情を感じる関係になってしまったことに。


2.相手の弱さと未熟さを憎む。弱いふたりながらいっしょに愛情と信頼のある関係を育てていく、という強さが、自分には意思ある努力としてあったけど、相手にはなかったことに。


3.過去の自分を憎む。うまく相手をそういう関係に導いてあげる度量がなかったことに。


ということもあるのではないでしょうか?
少なくとも私は、そういうことがあったとき、何年もかけて、パート1の1〜8、パート2の1〜3をぐるぐるぐるぐる、バターになってつながってしまうくらい考えます。そしてののうち準備が出来たら、新しい鉢にふっとめぐり合っているのかもしれません。


その過程においては、ありふれた言い回しですが、本当に、自分を許してやるという作業が必要になります。そのあとで、相手と運命を。
「あたし、よわっちくて、バカで、未熟で、大事なこともわかんなかったし、気付けなかったよね。でも、仕方なかったね。それに、相手も悪かったよね。タイミングもまずかったよね〜」
と、自分と相手と運命を、なんとなーくちょっとずつ、許していく作業をゆっくりゆっくりしていくんじゃないかなあ。きっと今も誰かが、いまそういう過程にいて、なんども反芻して、ぐわ〜〜ムカツク〜〜!!キィィ〜〜!ってなったり、寂しくなったり、自己嫌悪になったり、合理化したり、そんな道のりをいまえっちらおっちら歩いているところなんじゃなかろうか?そう思いました。