風景構成法と山



今日は久しぶりに山がくっきり見えました。
そういえば、風景構成法の大家の先生が、「自分の生活圏の山が、形が崩れずに描かれているか。その 守り としての距離感はどうか、遠すぎないか」ということをおっしゃっておられました。


そうですよね。「山」といえば、みんな自分が見て育った山を描きますよね。なぜか。たぶん写生大会なるもので何度も描かされたからではないかな?と思ったりもします。でもきっとそれ以上に、毎日のようにその山を見て育つということは、その山そのものの変わらぬ姿に守られて育つということでもあるのでしょう。どんな日も山はそこにある。天候や季節によって見え方は異なるけれども、同じ山として全く変わらずにそこにあり続ける。それはすごいことですよね。


小旅行したときにびっくりするのは、その土地の 山が違う ということです。当たり前なのですけどね。その土地の人はみーんなその山を「当たり前の山」として見て育つんですね。私は「山」というとつらつらつらーと視界いっぱい連なる山脈を想像しますが、知人のところでは平野のあっちとこっちにぼん、ぼん、とひとつずつすっくり立っているミニ富士山みたいな山を想像するんですね。ついつい「へんな山ー」と思ってしまいます。


これ、さらに中国へ行くとびっくりします。湖南省の田舎かなあ?あの教科書の漢文の挿絵みたいなぼっこんとしたきのこみたいな山があるんですね。ほんとうに!


アメリカへ行くとですね、テキサスなんかではあれが見られます!岩山!ほんとうにサボテンしかたっていなくて、ごろごろした赤っぽい石の山です。駆け上がれそうな感じです。


そういえば、「逃亡くそたわけ」では阿蘇山が熱く語られていました。行ってみたいわ・・・と思いました☆みんななんだか好きな山があるんですね。あるいは近くの山を好きになるのかな?


山論(なんじゃそれは)って面白いですね。登るわけでもないんですけどね。