「よくなる」って・・・?


カウンセリングをやっていると、1年に1回大きなスランプがやってきます。あるいは壁。分厚くて高い壁にどちん☆とぶつかります。


今年もキマシタ・・・。師走になろうというのに、


「よくなる」ってなんだっけ・・・?


というような、どうにもこうにも足(あるいは口)の止まる問の壁です。


「よくなる」ようにカウンセリングしちゃだめなのか?
というか、「よくなる」ってどういうこと?
誰のため?
何のため?
誰にとって「よい」の?
「よくなる」ように他人が何かできるの?
あれ?私は何を援助しているんだ?

動機付けの高いクライエントの場合、目標も決められるし、こちらもそれにそって本人のお手伝いをしていけばいいので、とても楽です。こちらが何もしなくても「ふむふむ」「ああ〜」と、うまく本人のペースで、かつ邪魔をせず聞いているうちに、なんだか「よくなった!」と言われて終結になったりしますね。それで、こちらも「ああ何もしなかったけど、この方のもっている力がうまく発揮されてよかったなあ。何かお手伝いできたのかなあ」とゆったり感じられます。その過程に寄り添わせていただいたことに、こちらが感謝の気持ちを感じるくらいです。


さて、では虐待ケース、あるいは境界例のケースなど、クライエントにとって「よくなる」ことは何なのか、本人自身もわからないし、全く見えないということがあります。


こちらもそれを感じ取ろうとしたり、目標を見つけられるように支援したりするのですが、ふと気づくと、クライエントとともに暗闇の中で光が見えなくて「どこに行けばいいのー!!」という迷子のような気持ちになっています。


そんな中で「よくなる」ように、あるいは私が光だと思ってしまう方向へ手を引いていきたくなります。私自身が息苦しくて、そこに立ち止まっていられなくて。でも、それははたして正しいのか?そもそも正しい方向なんてないし、その人にはその闇が必然である場合もあるのです。息苦しくても、その闇の入り口でどっしりと揺らがずに待っててあげる力量がまだないだけかもしれないのですが。


ただ、「よくなる」というのは「こういう生き方が幸せなんだ」と上から見た価値観なのかな・・・とふと考えました。


一体何を援助したらいいんだろう?
そもそも援助なんておこがましいんじゃないのか?
何もできなくていいんじゃないのか?そもそもなにかできると考えるのが傲慢なのに。
じゃあ、いったい私は「仕事」として、目の前の人に何を提供できるのか?
ただ生き抜くことを時間をかけて見守り続けることしかできなくていいのか?
無能なセラピストのいい訳であり、クライエントに対する甘えと怠慢ではないのか?


境界例に対しては「生き延びる」ことでせいいっぱいなんだという治療目標も目にします。・・・それだけじゃないんじゃないかなと悩みながら、でも結果的にそれを見守ったり見届けたりするしかできないという無能さは、むしろ人間の援助欲求に対する根源的な限界なのかもしれないとも思うのです。


欧米では、例えば境界例に対して、きっちりと認知療法をベースとしたプログラムなどを応用するようです。衝動性のコントロールや、虚無感、見捨てられ不安などと一つずつ戦って対決して理解して、そして乗り越えるというのが有効とされているんですね。


参照文献:

Borderline Personality Disorder: A Therapist's Guide to Taking Control (Norton Professional Books (Hardcover))

Borderline Personality Disorder: A Therapist's Guide to Taking Control (Norton Professional Books (Hardcover))


クライエントの協力のもと、がっちり取り組めば、確かに成果があがりそうです。本人もより快適に生活し、社会適応できるようなプログラムです。


でも、その前段階の中高生においては・・・その圧倒的な苦しみと人生による翻弄に対する無力さを前にして、とてもそんなプログラムなどやっていられません。「よくなる」ことについて考える余裕もないよ!!と血を吐くような叫びが聞こえてきたとき、私たちに何ができるのか?何かできるのか?いや、そもそも心理職って何??


ああ・・・スランプ・・・


もしくは、こうやってともに悩み、考え、行きつ戻りつ、もがきながら心理的成長をめざす息苦しい過程が、その人と自分の交わりによってセラピスト側にも必ず起こる事であり、そこに何らかの価値があるの・・・かな・・・?