[私的な臨床心理学的考察]愛は消滅するか?:きみに読む物語 もうひとつの愛の奇跡

きみに読む物語 ‐もうひとつの愛の奇跡‐

きみに読む物語 ‐もうひとつの愛の奇跡‐

 これまでの結婚生活では、ずっと身勝手で頑固にふるまい、金魚のように素知らぬ顔をしていた。そういう自分をかえりみると心が痛む。とはいえ、ひとつだけは正しいことをしてきたと信じている。それは、ともに暮らした歳月、妻をずっと愛していたことだ。とりたてて口にすることでもないと言われそうだが、あるときわたしは、妻のほうはそう思っていなかったと確信した。

(中略)

・・・子供が幼いとき、幾晩も眠れぬ夜を過ごしたり、何度も病院通いをしたりして、たがいに疲れきり、つらい気持ちに苦しんだことはよくあった。言うまでもなく、子どもが十代のときの体験は、思い出したくもない。

 そうした出来事のすべてが、夫婦それぞれのストレスになり、ひとつ屋根の下で暮らす他人同士として、ストレスをたがいに相手へぶつけることになる。だんだんわかってきたのだが、それが結婚生活の恩恵であり、不幸というものではないだろうか。日々のストレスを発散させる場所がいつもそばにあるのは幸せだ。しかし、深く好意を抱く相手がはけ口になるのは不幸である。


ニコラス・スパークスきみに読む物語 もうひとつの愛の奇跡』 プロローグp9


さて、プロローグを読んだ段階では、この男性が「金魚のように」(この比ゆは最高☆)無神経であるので、妻の中で愛が消滅したらしいことが語られています。それはこの夫が29回目の結婚記念日を忘れ、仕事から帰ってきて、いつものようにむっつりと会話もなく一日が終わり、寝床をととのえはじめた段階で臨界点を迎えたようです。


愛はこのように、ふっと消滅するものなのか?あるいは、ある地点から徐々に死んでいくものなのか?


例えば、この男性が語っているように、結婚あるいはそれに近い精神的親密感を持って長期にわたって近くで過ごした場合、「相手をストレスの矛先にする」甘え現象が起こる。その現象のために、少しずつ磨り減っていくのが愛というものなのだろうか?


それとも感情の硬化あるいは鈍磨が、どちらかひとりが努力を怠ったとたん始まってしまうせいだろうか?


プロローグを読み終わった段階でこんなことを考えてしまって、手が止まった。これはなかなかおもしろい本であるような!


実はまだこっちも読んでいないのに、図書館で見つけたからって手に取ってしまう活字中毒、積み本依存…。


きみに読む物語

きみに読む物語


読み終わったら再び考えてみたいと思います。