カウンセリングの適用とカウンセラーの理想
また雪が降っています。なんだか気分も沈みますね・・・。寒いと何もやる気が起きません。昨日ブログを書いていないのはそのせいデスネ・・・。そんなこともあって、ついついハワイの大学院でマリッジ・カウンセリングのコースを取っちゃおうっかな〜♪なんて気持ちも強まります。
マリッジ・カウンセリング・・・いいデスネ。日本では最近「離婚カウンセリング」なるものが出始めているようですよね。
もともとカウンセリングというのは、自我強度がしっかりしていて、自分で考え、選択し、判断しようとするような、ある程度の適応力と思考力を持った人を対象としていますよね。あるいは、混乱状態にあっても、精神疾患であっても、「いろいろ考えて、心を整理したり、自分にとってよりよい方向は何か見つけたいんだ」という人に対して、そのお手伝いをするというのが、基本コンセプトであるように私は理解しています。
これは逆に返せば、健常圏の人であっても、非常に混乱していて、とても落ち着いた気持ちで考えられないという状態の人には適用できないということでもあります。とにかくなんとかしてほしいという、完全に受身の状態の人も難しいですよね。
このような意味において、現時点で、日本という社会の地方における精神医療においてカウンセリングが効果を持ちうる範囲は、非常に狭いのではないかと感じるようになりました。
今のところ、私の知るかぎりの、地方の精神科・心療内科では、
「ハンバーガーにポテトもつけますか?」
というような感じで、「薬物療法がメインだけど、カウンセリングなんていうのもあるから、受けておく?」と主治医が外来患者さんにすすめているような気が・・・しないでもないように・・・思うこともないでもない・・・。
そのような場合において、たとえば第1種認定校で、しっかりがっちりとカウンセリングの基礎やら理論やら技法を学んできたおニューの心理士たちは、違う仕事をやらされるという感覚を必然的にえるところとなる。
(あ!だんだん防衛的になってきて、デスマス体の口調が崩れた!と後で読み返して気づく。)
それはカウンセリングではなく、「精神科・心療内科のスタッフとしての業務」なのである。このようなことは、ひとつの営利団体において雇用されて、お給料をもらうという「仕事」としての必然である。
「スタッフとしての仕事」も、もちろんしなくちゃいけない。お仕事だからね。でもね・・・基本的に、私は思うんだけれど・・・
カウンセラーみんなはカウンセリングが好き
なんじゃないだろうか?
「きちんとした、カウンセラーとクライエントのお互いにとって手ごたえのある、わくわくするような、光がだんだんみえてくるような、糸をしっかりとたぐりよせていくような、カウンセリングがしたいなあ・・・」と、けっこう強く願っているのだと思う。そのヨロコビを知っているがゆえに、「ああ・・・またあういう仕事がしたいなあ」と求め続けてしまうのである。
だからこそ、学校やその他の相談機関、医療機関において、「その場所でのスタッフとしての仕事」がうまくできないケース、あるいはやる気になれないケースが多く、多くの心理士の熱意やら何やらをそぎ落としてしまうのではないだろうか。
仕事っていうのは・・・やっぱりその7割〜9割くらいはつまんないものかもしれないですね・・・。だからこそ、お金をいただくことができるんですよね。
「他の人がしたくないようなつまんない仕事の中に、自分は何らかのヨロコビを見出せることができるので、どれか一つを選んで世の中に奉仕して糧を得なくてはならないとしたら、自分はその仕事をする」
というのが仕事というのもの定義なのかなあ・・・。
でも、あれですね、
「純粋なカウンセリング以外にやらされる業務もけっこう嫌ではない」ところで仕事をしないと、カウンセリングそのもののやる気も落ちちゃうかもしれないな
っていうことですね。
カウンセラーはカウンセリングが好きなので、ついつい、カウンセリングさえできればいいやーみたいな感じで仕事を選んでしまう傾向があるので注意しないといけませんね。
なんだか春休みムードのせいか、寒いせいか、気分がまだまだモジャモジャシテマスネ・・・。
追記:
「カウンセリング以外にやらされる業務」というのは、面接室の外でやる仕事、あるいは面接の範囲外で、“スタッフ”として、なんだかなりゆきみたいにやらなければいけなくなる仕事のことです。医師がひとりあるいはふたりしかおらず、看護師の数も限られている中で、心理士が分け持っていく業務のことですね。地方では国立病院機構でないかぎりそういうところばっかりですよね・・・。