私的なムラカミ・ハルキ論


枕元においておくべき本のひとつ

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991



象の消滅』に納められている『眠り』を読んで、私にはそれが「くっきりと手にとるように」わかった。この作家は確かに暗い井戸の底に降りたことがある。そして客観性と自己の整合性を失うことなく、文章という盾に守られて無事帰還したのだ。


井戸の底に降りないまま、底に横たわる闇について書こうとする作家は多い。けれどそれは薄っぺらな偽者でしかない。井戸にちょっと頭を突っ込んで書いたに過ぎない。文章は分厚い闇の表層を滑り、その深みをつかみきれないまま、上から見たことを「それらしく」書くことに終始する。


井戸の底に降りて、戻って来られない人も多い。あるいは自己の整合性を失って戻ってくる。客観性、もしくは現実検討力を失ってしまうこともある。一部を失ったまま書き続ける人もいる。


フランツ・カフカ賞であるとかノーベル賞といった世界規模の賞を取るような作家というのは、もしかしたらそういう人間の意識の闇の奥底に潜り込みながら自己を保ったまま生還できるような人なのかもしれない。そしてそれを文章というツールを使って、限りなく正確に描写しようと努めることができる人なのかもしれない。


『眠り』という短篇は、とにかくすごい。
どうやったらこんなふうに正確に、意識と意識の隙間を描写できるのだろう。正常と狂気の隙間を表現できるのだろう。日常のすぐとなりにひそんでいる神経症的な瞬間を、ここまできちんと書けるというのは、自分自身がその瞬間を歩きながらどこまでも冷徹に意識にとどめ、文章に変換する作業を行ったという証拠ではないだろうか。


すごい。