『僕はパパを殺すことに決めた』 


医師である父親自身の離婚による自己愛の傷つき、それによってもともとあったDV傾向がエスカレートし、子どもに対する身体的虐待と過度の英才教育という精神的虐待が日常化する。
「〜できなかったらコロス」という父親の言葉を額面どおりに受けた高機能自閉の少年・・・


そのようなキーワードが供述調書をもとにまとめられている本のようである。


僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真実

僕はパパを殺すことに決めた 奈良エリート少年自宅放火事件の真実


これを読むと、少年が身体的虐待を受けていることを多くの人が知っていたことがわかる。


しかし、たとえば自分が中学でこの子に関わっていたとしたらどうだろう。
成績も申し分なく、友達もいて、特に問題もないという場合は、スクールカウンセラーであっても担任であっても、やはり家の中のことまで見えず、虐待を止められなかったのだろうなと思う。


こう思うと、当たり前ことだけれど、少年のケースであっても父親のケースであっても、なかなか言葉にされないことを言葉にしてもらえるような関係づくりが何よりも大切なことなのだろうと改めて思う。この父親も、継母も、本人も、どこかで誰かに何かを気軽に、そして信頼して相談できるような場があれば、相手がいれば、何かが違っていたのかもしれないと思いたい。


とくにDVのケースと虐待のケースは、「身内の恥」のように感じやすく、なかなか相談されないことが多い。あるいは日常化して「慣れて」しまっている場合もある。


こうして考えてみると、スクールカウンセラーが生徒や先生の日常に寄り添って、いつでも、「ちょっとだけ気になっていることがあるんだけどいい?」と声をかけてもらえる存在でいるということは、やっぱり意味があるのだろう。たとえば、担任の先生は一番生徒の様子に敏感な存在であるけれど、日常業務が忙しすぎて「気になったこと」に時間をかけて取り組む余裕がないことも多い。そんなときスクールカウンセラーがそういう話を気軽に聞いて、「じゃあこんどちょっと声かけてみますよ」と受け、部活の合間に生徒に声をかけたり、保護者会の折に保護者と雑談してみたり、様子を見て心配だと思ったら面接を設定したりする。そういう役目を担っていくことに存在価値があるのだと思う。10回のうち9回が「あ、たいしたことなかった。よかった。思い過ごしだった」ということであっても、そのうち1回は「今話を聞いておいてよかった・・・あぶないところだった」ということがある。その1回のために、できることをたくさんの大人が分担してがんばっていくことによってしか、このような悲しい事件に応えていくことはできないのではないかな・・・。