私的な「父親」論


わたしの子どもではなくて、同居している血のつながったともだちです。
冬の写真ですが、彼のキャラをよくあらわしていますね☆


最近考えているのですが・・・「おとうさん」とはどうあるべきか?
憎まれても、規律やルールを示してやるべきではないか?厳しい存在がいてこそ、その人に認められるとき、喜びもおおきいのではないだろうか。男の子として、とくに、「自分を律する」ことのできる人間になってほしいと願っている。そのせいか・・・どうしても厳しくなりすぎるのではないかと心配になる。しかし、他のメンバーが甘すぎるぅ!


例えば・・・このごろ保育園ではお昼寝をしていない。
そのため、眠くなるピークは7時とか8時である。それまでに、ご飯を食べさせ、お風呂にいれ、歯を磨き、本を読んで、なんとか寝かしつけるのが望ましい。これは恐ろしいほどの困難な任務である。5歳児とかいうものは「やだやだ!〜じゃないとやだ!」とすばらしい自己主張を行うのだ!


そのときに、周囲の母性的な家族員が受容的になりすぎたらどうか?
「じゃあ、〜にしようか? お風呂に入るのは誰がいいかな?」「〜〜したら入ろうね」「ごはんは、おにぎりさんにしたら食べるかな?」
・・・甘いんじゃ!!


7時ごろからブロックなどを熱中して作り始める。もともとお風呂は嫌なので、本人はなんとかひきのばそう、あわよくば入らずに済ませようと目論む。だらだら作る。家族は「受容的」を言い訳にして、その隣でゆっくり本を読んだりテレビを見たりしてしまう。すると、子どもの眠さは増してくる
→もっとわがままで言語的説得が通じにくくなる
→お風呂にテコでも入ろうとしない
→大人が怒る羽目になる
→泣く。嫌がる。「ママのバカ〜〜」とか言う。
→大人ムカっとくる。
→気まずい雰囲気のお風呂タイム
→歯磨きでさらにごねる
→そして、機嫌を損ねまくって、眠さのピークをこえる→寝ようとしなくなる・・・

→寝不足
→朝めちゃめちゃ眠くてだるいので、すんごく不機嫌
→ごはんを食べようとしない
→大人ムカっとくる。しかしなんとかなだめようとする。なだめすかす。説得を試みる。
→機嫌が悪いので、言語的説得が失敗
→「保育園行きたくない」とか言い始める!!


恐ろしい悪循環です。
こんなとき、「おとうさん」は
「7時だから風呂に入るんじゃこら〜〜〜!!」
と一括。
「8時だから寝るんじゃこら〜〜!!絶対寝るんじゃ〜〜!!」
と一括。


もちろん、怖がられるし、嫌な役回りです。楽しくありません。けれど、彼が自分を律することが出来るように、判断力がついてくるまで、地道に彼の外在化されたルールブックになるしかありません。もちろんめいいっぱい一緒に遊んだり、本を読んだり、お馬さんをしたり、何かしてくれたら「ありがとう〜〜!」と喜んだり、「大好き」を伝えたり、そういうこともたくさんしていかないといけないし。


おとうさんは大変なんだな・・・。
でも、愛情があるからこそ、父性は成り立つのだと思います。カウンセリングも同じですね。父性のあるカウンセリングは、そのクライエントへの真に援助的な気持ちがなくては、「ただの厳しくて怖い人」になってしまいます。父性的である、というのは本当に難しいことです。