自分の癖を見つける


これは去年の写真です。
今年はまだ一晩でこれだけつもるくらいほど降っていませんが、今週末はたっぷり積もりそうです。
あ、今外を見たら、もう車が埋まっていました・・・。明日発掘しないと!


今日はかなり息苦しく、自分と向き合っています。
アホだなあと思いつつ、お付き合いくださる方、ありがとう。
心理の道を行く方には、未熟な心理士がもがく形の一つとして何らかの助けになれたら幸いです。
長くなりそうですが、とにかく向き合ってみます。
もしなにか、さらにヒントになりそうなことや、連想されたことがあったら伝えてみてくださいね。



落ち込んだとき、他の心理士さんたちはどうしているのかわかりませんが、私はとことんつきつめて自分について考えます。うまくいけば、自分の癖をひとつだけ修正するチャンスを得られるからです。


人間が落ち込むときというのは、そのほとんどが人間関係です。
人と人との間に、ものすごい幸せな瞬間があり、ものすごい悲しみがあり、恐ろしいことがあり、信じがたいことがあり、死にたいようなことがあるのです。
それはきっと人間関係が、自分の心の中にあるものを映し出す鏡であるからなのでしょう。


「今ここでの人間関係で起こることは、その人間にとって、あるときある関係で起こったことであり、起こりうることである」という考え方が、心理療法に応用されています。


例えば、私が今、誰か近しい人との関係でぶつかる困難は、過去に誰かとの関係でも困難の元となった種であり、あるいは仕事においてもひっかかりがちな自分の癖であり、未来においても自分を悩ませるものになるのです。


それを自己理解に応用して考えます。
ものすごく悲しかった出来事があって、仕事でも行き詰る局面があって、友達の言葉で「あれ?私とは違うんだな。そうやって考えるんだな」と考えさせられることがあって、そうやってつきつめてつきつめてじゃんじゃん自分の傾向について考えていくと、ひとつだけ、自分が今気づける範囲において、自分の嫌なくせにぶち当たることができます。


今回は「先のことを頭で考えすぎて、今この瞬間のナマの感情をしっかりきっちりと受け止められず、未来志向に数ミリずらして押さえ込んだ上で頭で考えようとする」という傾向が自分にあるんじゃないかと反省しました。


近い人間関係の中で無意識に起こってしまうということは、カウンセリングにおいて自分がふと防衛的になってしまったときに出してしまっているのだと思います。まだまだ未熟ということなのですが、やっぱり生身の人間ですから、こうして苦しみながらひとつひとつの無意識の癖をあぶりだしてつぶしていくしかないんだと思います。気づくことが第一歩で、気づくことさえできれば、最低限のコントロールが可能になるはずです。


こうやって書きながらも、このテーマに関しては果てしなく防衛的になっている自分に気がつきます。癖について、やっぱり素直に具体的に書けないんですね。「よく見られたい」という欲、「すごいねって認められたい」という欲、「自分を好きになってほしい」「自分を好きでいてほしい」という欲、「もっと〜してほしい」という欲・・・。
欲が鎖となって動きを制限し、癖を作り出すのです。


私の癖について考えてみると、例えば「嫌だなあ」と近しい人との関係で思ったとしますね。そうしたら、その瞬間から「でもこれは、この人の性格ではきっと〜〜という心積もりであるから、かつ今は〜〜という状況でとても疲れているから、もし私が〜〜は嫌なんだって言ったら、きっと相手は不愉快に思ったうえに〜〜〜という態度になるだろう。もしそうなったら、私にとって具合がよくないし、今から〜〜する予定だから、雰囲気が悪くなって楽しめなくなってしまう。それに、この関係性を1ヶ月後、半年後、1年後、5年後と見据えた上で考えると、やはりこの場では相手が喜ぶような言葉が望ましいだろう」とぎゅーぎゅーと頭で考えた上に、「嫌だなあ」を黙って押し込めてしまう・・・上にさらに「嬉しい☆」とか言ってしまう・・・。


・・・職業病!?いやどうかなあ、もっと熟練した人は自然な形で自己一致(自分の心の中で感じていること、考えていることと、表現すること、言動を一致させること)ができるはずだし、衝突をおそれず相手にとって「ほんとうによいこと」を厳しくも提供しようとする姿勢があるわけだから、「〜〜〜っていうのは私にとっては嫌なんだけど、どうしたらいいかな?」と話せるのがいいわけだよね。


衝突を恐れる・・・関係を失うことがいちばん怖いのでしょうね。そのために「自分の感情を正直に伝える」ということの優先順位を極端に下げてしまっている。つまりは臆病で弱虫で、頭でばかり考えて、「真に援助的」なるために必要な、その場でのナマの感情に関わることを避けてしまうんです。ということは、やっぱり私自身の欲と弱さからでてくる自己防衛の癖なんでしょうね。


言い訳を考えるならば、きっと初心者のときに、ナマの感情に流されすぎてうまくいかないことがあったので、封じ込めすぎたのかもしれません。最初にもったケースがふたつとも苦しみと気持ちの揺れが激しいケースだったのです。私は一緒に感情的に揺れてしまって苦しくなってうまく援助できませんでした。その上で、

  • 見立てを正しく行う努力をする。
  • 毎回見立てなおす。
  • 見通しを持つ。
  • 常に第3者として距離を保ち、客観性を保つ。
  • 文脈を常に考える。
  • これまでの経緯をふまえた上で、今ここでの言葉の意味を捉える。
  • 来週、1月後、3ヵ月後、1年後、5年後、10年後のクライエントにとってよりよい援助は何かを常に考える。


というところばかりを防衛的に強化してしまったのかもしれません。


そうなってしまうと、「今ここでとにかく生き延びることしかできない。苦しくて明日が生き延びられるかなんて考えられない」というクライエントに対して、うすっぺらな援助もできないんですよね。今そこにあるナマの感情をしっかりと語り、受け止め、ともに味わいなおす。「よくなる」ことはできないかもしれない。けれど、今ここで荒れ狂う嵐のような感情の渦を「そんな感情があってもいいんだよ。苦しいね」と誰かに受け止めてもらうことはできる。そうやって息をつくことができる。それだけでいいんだなぁと気づきました。


肩の力が入って理性的になろうとばかりしていたのは、仕事での恐れと、職場で嫌な出来事に巻き込まれた苦痛と、そして大切にしていた関係が失われることへの利己的な恐怖からだったんですね。関係が表面的には保たれていても、心の中では切れてしまっているときもあるのにね。そう、肝心なことをなにひとつ話し合えなくなっている親子関係のようですよね。そう考えると、それも「本当の気持ちを話したら失ってしまう」と恐れているからなのかもしれないなあと思いました。