カウンセラーという仕事について


白ワインを飲みつつ、考えてみます。

そなた、子どもの頃は、魔法使いに不可能なことなどないと思っておったろうな。わしも昔はそうだった。わしらはみんなそう思っておった。だが、事実はちがう。力を持ち、知識が豊かにひろがっていけばいくほど、その人間のたどるべき道は狭くなり、やがては何ひとつ選べるものはなくなって、ただ、しなければならないことだけをするようになるものなのだ。」

ル=グウィン作 清水真砂子訳 『影との戦い ゲド戦記Ⅰ』岩波書店 1976 p41

臨床心理学を勉強して、凄腕のカウンセラーになったら、人間のコミュニケーションについて何でもわかって、自分をしっかり自由自在にコントロールできて、相手の気持ちもささっとわかって、すごーい感じになるんだろうなあって・・・


ん?いや、そこまでは思っていなかったけど、なんとなく「魔法使いの杖」みたいなファンタジーがありましたよね。心理学って。


だって、人間の活動すべてに「心」が関わっているのですから、経済も医療も教育も芸術もなんだって、心理学をおさめていれば人間のやることすべてのツボをおさえることになるのでは!?と思っていたような気がします。


確かに、「心」はすべての活動のツボなのですが、残念なことにどれだけ勉強しても自由自在にコントロールできるようになりません!!なぜなら、勉強できること以上に「心」は複雑で捉えがたく、文脈に依存しており、かつ文脈から独立しており、ひとりひとりがあまりにも違っているからです。


心理学を学んで、できるようになることといったら、「可能性あるいは選択肢を普通の人の何倍も、色んな角度から柔軟に考えられる」ということかなあ。


あるひとの、ある瞬間の、ある行動は、様々なものから影響を受けていて、様々なものを目指していて、何かを守っていて、何かを欲していて、何かを恐れているのです。それを「職業」として、普通の人の何倍もうーんうーんとクライエントの利益のために考えて、クライエントの利益になるように、自分という道具を使いこなしながら考えたことを活用する、というのがこの仕事だと思います。


こう書いていくと、先ほど引用したゲド戦記と一致しないように感じられますが、上記の仕事をほんとうに熟練していくと、見るべきものを見て、聞くべき事を聞き、知るべきことを知るので、そのとき援助としてできることはやはりひとつのことになっていくではないかと思います。「今ここでのその人にために私ができることのベスト」が、熟練するほどによく見えるのでしょう。もちろんそれは完全な正解ではありえません。しかしその「ベスト」がなしえることは大きくなっていくのでしょう。


自己愛障害の臨床―見捨てられと自己疎外

自己愛障害の臨床―見捨てられと自己疎外

すばらしい本。sobaちゃんありがとう。昔教えてもらって、買ってずっと手元においていました。読むべきときがきて、そばにこの本があってほんとうによかった。


自己愛は誰もが持っています。
成長の過程でとても傷つきます。
自己愛を傷つけられたまま育った人がたくさんいます。


私は「私」という道具しかもっていないので、道具をとにかくよく磨いていくことしかできません。それが、カウンセラーという仕事の特異性ではないかなあと思います。


別のブログにもありましたが、カウンセラーはそんな特別な仕事かっていうと、そういうのではないんです。とにかく道具が自分自身しかないといういや〜な仕事・・・。


道具をよくするには自分と向き合うしかないんだよね。教育とか保育とか医師とか看護とか、そういう仕事は他に道具や武器があるんです・・・。カウンセラーは「対話」と「自分との向き合い」と「目の前のクライエントとの向き合い」と「クライエントの心の中で起こっていることの読みとサポート」が仕事だから、自分自身の内面へ向けて&外へ向けて、精度と感度を高めるしかないんですね・・・。