心の病とは?

バリの朝



心の病というひとつの状態、現象、あるいは過程、あるいは結果、あるいは適応様式は「治る」ものではない。別の現象、あるいは別の適応様式に変化するのである。


その「心の病」たる状態をもたらしたのは、その人のパーソナリティであり、家族背景であり、対人認知のパターンであり、状況を認知する傾向であり、コミュニケーションの様式である。それらが相互に絡み合って、常に影響を及ぼしあっている。その有様はひとつの恒常性を持つ。


つまり、ある人が「心の病」としての状態を呈しているとき、その状態はその人自身のシステムとその人を取り巻くシステムの中で均衡を保っているのである。カオスでありながらも、そのカオスは必然性の中にあり、整合性を保つためのひとつピースなのである。


カウンセリングの中で、このようなホメオスタシスの機能が、クライエントを「心の病」のない状態へ変化することを拒んでいるのを感じることがある。家族の言葉、本人の考え方、人の気持ちの推測の仕方、行動の選択、カウンセラーにある気持ちを伝えることを我慢し続けること。ひとつひとつが強力なバネのように、本人をもとあった状態へ連れ戻してしまう。


そんなとき、カウンセラーははがゆさとともに無力感を感じる。自分にはいったい何ができるのだろうかと途方にくれる。クライエントは苦しんでおり、自分を新しいバネにつなぎ変えたいと願っている。けれども病理が「人格」に食い込んでいる深さが深いほど、またその病理が家族とつながっている強さが強いほど、今のバネは強力な持続性と必然性を持って成り立っているのである。よって、どれだけ本人とカウンセラーが努力しても、引き戻されてしまうことが多い。


そんなときに、「カウンセラーという役割を一時的に担っている自分」は何をできるのか、何をしているのかを、考え続けていなければならない。さもなければ、たやすく燃え尽き、怒りを感じ、クライエントにぶつけてしまいたいという逆転移に苦しみ、そういう自分の根本的な資質に対して疑問を感じはじめてしまうだろう。


何をしたらいいのか?


何を求められているのか?


求められていることははたして、可能なことなのか?


何を提供できるのか?


何が今可能なのか?


どこまでどのくらいどうやって提供したらいいのか?


自分のベストで何かを提供できるとしたら、どのようなクライエントに対してなのだろうか?


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