家族の危機
家族というもののライフサイクルに、何度か危機が訪れる。
それは家族を構成するメンバーがそれぞれ固有のライフサイクルを生きており、それぞれ固有のストレスがあり、危機があることによる。そういったひとりひとりの苦しみのしわ寄せが家族に押し寄せる。家族は緩衝材となって受け止める。けれども少しひずみは残る。そのあと次のメンバーの危機がやってくる。またしても家族は受け止める。ひずみが残る。あるいは何かが壊れる。何かは直るけれど、何分の1かは壊れたまま残る。
ときどき、地震が起こる。
耐え切れなくなったプレートが一気にずずずっとこすれ、上に載ったものをなぎ倒す。
あるいは、大きな何かが壊れる。
目に見えないひびが入り続けたコップがいつか壊れるように。
そのようにして数年に1度家族の危機というものがある。すべての家族に。そのときどれだけメンバーが意識して、協力し合って、自己中心的ではなく強い思いやりをもって家族というものを守っていけるかが、問われる。
それによって、ときには、病気になるものもいる。心の病気になることもある。それすらも、壊れかけた家族を繋ぐためのひとつの死に物狂いの試みであることもある。
例えばこどもは、両親の怒声を聞かなくて済むためなら、どんなことでもする。だれよりもいい子になり、すべてを我慢する。だれよりも悪い子になり、将来をなげうっても手間のかかる子どもになる。クラスで浮くことになっても、昏迷に近いほどの意識消失発作を心因によって何度も起こす。
家族のすべてのメンバーが変わらなければならない。気づかなければならない。全員が同じくらいの責任を持っており、同じくらいの権利がある。誰かだけが悪いことはありえない。すべての人が同じだけ悩み、同じだけ変わることができれば、家族の危機は乗り越えられる。
けれども、家族の中でも、誰か一人だけのせいにされることは多い。他のメンバーは「その人が悪いから、その人が変わらない限り変われない」と思っている。
すべては相互作用しあっているのに。
地球を救うのと同じように、家族を救うために、そのとき、自分が何か行動を変えなくてはならないのに。お母さんも、お父さんも、子どもも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、すべての人が。
そのためのきっかけとして、家族の地震は起こるのに。
「変わらないこと」にしがみつくと、誰かを犯人にして、別の誰かが深く深く傷つく。
壊れるのは容易い。